酔いどれ

戯言

卒業旅行(勝手)

卒業旅行に行ってきました。卒業出来る訳でもないのに。

 

おまけに向こうは卒業旅行だと思っていませんし別に卒業旅行は向こうにもあるでしょうし、なによりも日帰りです。そんなことあるかよ。私が勝手に卒業旅行とぶち上げて1人でエモくしているだけです。そもそも卒業旅行というワードがエモさを含んでいて、パターン化された“エモ“に「卒業旅行」も入れておくべきだと個人的には思っています。ただの旅行だろ卒業って付けるなよ。卒業って付けるから安っぽく聞こえるだけで、中身はちょっと豪華な旅行に過ぎないのです。

 

一方今回の(私が勝手にそう称している)卒業旅行は、恐らく世間一般的な卒業旅行とはかけ離れたものだと思います。

ことの発端はわずか1週間前、友人のひとりがあと1週間で大学のある街を離れ上京することを知ったことから始まりました。最後に何かしたいな、と思いグループLINEで声を掛け、私を含めた同級生3人での今回の日帰り旅行の実行が決まりました。

特筆すべきはその計画で、月曜の夜9時に車を借り、深夜に街を出て「どこか」へ行こうというもの。行先も特に決まってなければ、出発の時間も定まらずなんならキモい時間に出発を果たそうとしていました。ちなみに一昨年にも同様の旅行を同様のメンバーで実施しており、今回の旅行もまた実施しやすくなっていた背景もあります。

 

如何にも大学生みたいな事をしているな、と傍目から見たら思うのでしょうが、我々も如何にも大学生みたいな事をしているなと思っています。「大学生」というコンテンツを過ごしている我々が1番そのコンテンツを消費しているのです。大学生みたいだねバカの日程だねといってゲラゲラと笑うのが1番最高で1番気持ち悪くて1番気持ちいいのです。そこまで理解している友人がいるからこそ出来ることで、大学生活でそれをしてくれる友人を見付けられたことが最大の幸せなのかもしれません。

 

話が逸れました。隙を見つけては己の友人への大いなる感情を露出させるバケモノになってしまいました。反省します。

 

さてさて、このような背景からとりあえず車だけ確保して行先も時間も詳細未定のまま出発当日になりました。車を借りる際運転手は免許証を提出しなければならないのですが、全員半径200m圏内に住んでいるにも関わらず免許証を1人に事前に渡しておくという手間を面倒がったせいで全員が車を借りに夜9時に集まることと、その後仮眠を挟み朝の2時に出発することが決まりました。

愚かにも私は免許証を出して車を借りに行く前に眠剤を飲んでしまい、またそういう日に限って眠剤の回りが妙に早くフラフラし始めていたため友人に免許証を託し速攻で布団に刺さりました。

ちなみにLINEを見返すと眠剤を飲むポカをカマしてる割にまあまあどぎつい下ネタを放っています。反省して欲しい。私が友人の立場だったら本当に付き合い方を考えていると思います。4年間見捨てられなくて本当に良かったです。ありがとう。

 

深夜1時過ぎ、目覚めました。

クワッドステップスは眠気防止に丁度いいのでは、という夢を見ました。そらSASUKEの第一関門で寝るバカは居ないでしょうが。どんな夢を見ているんだ。

眠剤は抜けませんでした。可哀想。可哀想なのは抜けませんし。フラフラしながらシャワーを浴び、寝ぼけながらメイクをし(ルーティンに組み込まれていた為か自然なメイクができていた)、もしかしたら温泉の可能性もあると思い温泉セットを適当に作ります。当然寝ぼけているので何故か乳液を入れて化粧水を入れてなかったり、風呂上がりのベースメイクを粉類しか入れてなかったり、ヘアオイルを忘れていたりしていました。どうしようもない。

 

フラフラしながら服を着替え、フラフラしながら家を出て車のある駐車場へと向かいます。傘持ってきててよかった(杖代わりに使っていた)。正直あんまり記憶は無いです。後部座席で横になりながら行先の話し合いに虚ろに参加します。山口は今度行くから、山口は6月に行く、と似たようなことを何度か繰り返したかもしれませんが、行先は兵庫県有馬温泉に決まりました。今決めるな。

 

次に目が覚めるともう倉敷に来ていました。早い。夜はまだ明けておらず、まだボンヤリとした脳ミソでローソンを徘徊したのを覚えています。冒険的な買い物の選択など出来ないので、いつも買ってる2Lの天然水を買います。100円と少しでゲロ安のため定期的にお世話になっているのです。

 

車が走るにつれ、日も昇り、意識も戻ってきました。お腹がすいてきたので兵庫に入ったあたりで朝ごはんとすることにしました。ファミチキ食べた。兵庫とは。

 

ドライブの道中はすっげえおもんないことを言いながら笑い合いました。ここでいうおもんないとは、おもんないと言って許容されるおもんなさのあるおもろさです。本当におもんない時はおもんないなどと言えません。友人のひとりなどは明らかに私のボケ数の多さに疲弊していたと思います。申し訳ない。それぞれ3人が別ベクトルのボケを展開しつつ被るゾーンはお互いに少しずつあるので、何を言っても大抵どちらかが拾ってくれる気持ちよさがあるのです。こう思ってるの俺だけだったらどうしよう。

 

 

 

そうこうしているうちに、例えば姫路城は道路から見ると意外と小さいなどと騒ぎつつも、数時間前に決まった目的地である有馬温泉に到着しました。デカい温泉地あるある、逆にどの温泉に入ったらいいか分からない問題を、我々は温泉テーマパークを選ぶことで亡きものとしたため、本当に有馬温泉を楽しんだのかと言われたら微妙です。温泉テーマパークだったら有馬温泉である必要はあるとは言えない気もしますが、まあ良かったこととします。

 

温泉は多種多様で、とても気持ちよかったです。私はドクターフィッシュに対してすげえモテ期が到来してしまったり、岩盤浴で友人二人が寝落ちしていたり、思い出の一つ一つは取るに足らないものでしょうが、なるべくこの日を忘れずにいたいなと思うものでした。楽しかったな……

 

帰りは少々私も運転しました。私自身は別に車の運転は嫌いじゃないのですが、とにかく安全運転を心掛けようとしスピードを最低限しか出さないため、顰蹙を買い、更に別に運転自体は上手くないという最悪の欠点を抱えています。しょっちゅう車が左に寄るので友人からも注意されていました(天皇陛下万歳!と叫びながら右に寄るお決まりのボケ付き)。

 

もう多分今後、気の置けない友人とこんな無茶な予定で、ずっと道中ボケ続けてという旅行は無いのだろうなあと思うと少々寂しくもあります(またやりたいとは言ってない)。私たちは大学入学と同時にコロナ禍を迎え、何もかもが手探りで友達作りすら手探りの中SNSを介して出会うという最悪の出会いを果たした関係ですが、それをもとに4年間も関係が続くとは思っていませんでした。そんな感じで友達になった人はまだまだ居ますが、この3人でやるのはこれが最後だな、という確信めいたものがあったため(引用元も参考文献も先行研究もありませんが)、寂しさと嬉しさと感謝でいっぱいでした。ありがとうね……

 

帰りの道中、こんなことを思いながらグズグズと泣いていたのに、友人の1人がエモとかそういったものから全く懸け離れた話題を持ち込みそれが盛り上がってしまったため涙も引っ込みました。最後までこうなんだなあ。笑 楽しかったけども。

 

四年前と二年前

実家に帰っておりました。

 

目的は猫の世話です。この度めでたく姉が結婚する事になったので(クソがよ)、両家顔合わせのために父が京都に行かねばならず、暇を持て余している私が実家の鹿児島に帰り、4匹の猫の世話をすることになったわけです。

帰るやいなや、父親にいつまでいるのかと聞かれました。全くこの父親というものは私がLINEで答えているにも関わらず見落としているのかなどと考えつつも月曜まで居ると答えました。別にいいけど、と前置きつつの父の返答は「翌日は命日だよ、お母さんの」でした。

 

あ、まずい。忘れていた。

広島に戻る次の日は、私の母の命日だったわけです。

 

別に完全に忘れていた訳ではありません。先週頃からそういやこの時期だったなと思うことはありました。ただそれを帰省と絡めるつもりが私の中でなかっただけです。

 

ただ、忘れていたという罪悪感と、母が居ないのだといういつも気にしていなかった筈の悲しみが胸の中に広がっていきました。

 

母は私が二度目の(二度も受けるな)大学受験の真っ只中、ちょうど全ての私大試験を終え第一志望の国立大二次試験に向けて勉強を始めよう!という時に亡くなりました。センター試験を終え、予想以上の点数を取り母とふたりで喜んだこと、国立大の志望先を決め発破を掛けられたこと、私大試験前日に勉強が捗らず早々に予備校から逃げ出し自宅に帰ると母がおらず緊急搬送されていたこと、試験を控え気が動転するといけないからと叔母に見舞いを制限されていたこと。術後意識は回復したけどぼーっとしており、名前を聞かれて何故か私の名前を答えたらしいこと。私立受験を終え、明日は予備校をサボって見舞いにでも行くかと床につき、翌朝起こされた時には容態が急変していたこと。これはあくまで記憶の一片にしか過ぎませんが、四年経った今でも鮮明に記憶していますし、思い出す度に悲しみが込み上げてきます。

 

また、二年後には叔母が後を追うように亡くなっています。母と叔母は非常に明るく口数が多かったので、先日正月に親戚が一堂に会した際はその雰囲気の変化から二人の不在を感じずには居られませんでした。

 

どちらも私の精神衛生にも、人生にも深く影響を及ぼしている気がします。記憶の中の二人は元気に私にちょっかいを掛けてきますが、もう私が二人と会話することはありません。どんなに話したいことがあってもそれが叶わないというのは辛いな、と思います。

 

話を戻しましょう。

帰省中にそういった悲しみを覚えながら、母方の祖父母の宅をも訪れました。目的はお小遣いをせしめる為間違えた、祖父母に元気な顔を見せ仏壇のご先祖さまに手を合わせるためです。決してお金に目が眩んでいる訳ではありません。

特に祖父の痴呆が進行していて、私の名前が出てこないのは兎も角(面白爺なので十年前から私と従兄弟を間違え続けてきた)、やれあそこの家の権利はどうしたとか言い出すのです。それは五年前に祖父自身が売却したのに……と祖母と二人でいなしつつお茶を飲み談笑していました。

祖父がふっと母と叔母はどうした、と聞いてきます。なんということか、二人とも亡くなった事すら忘れていました。もう死んじゃったよ、と祖母が言うのを私は適当に追従していました。祖父はもう居ないのか、と涙目になりながら呟いていました。

 

私はいつになったら二人の死を乗り越えられるのか……と呆然と最近思います。実家に帰った時も、ここに母が居ないのなら実家では無いと思ってしまいます。私はマザコンでは決して無く寧ろ母の存命中は母と大喧嘩をしたり突き飛ばしたり突き飛ばされたりがあったわけですが、それでも親の片方が二度と居ない家というのは虚しいです。また、大学進学のために家を出る直前に母が他界したため、母のいない家を我が家だと思えないのかもしれません。実家に帰る度に空虚感に襲われるのはこのためなんだと思います。

 

私は合唱をしていますが、私が高校生に上がるタイミングで合唱を辞めてしまったのを惜しんでいたのは間違いなく母でした。叔母は高校生の時に合唱で日本一を取ったほどであり、それを聴いていた母もまた、歌いこそしないですが合唱に関して比較的耳の肥えた人でした。二人とも亡くなった今となっては、合唱再開したよと報告して喜んでくれる人も、演奏会に呼んで詳細に感想を述べてくれる人も、親族の中では誰もいません。ちなみに一度父親を演奏会に呼んだ際、彼は見事に船を漕ぎ息子がソロを歌っているのを聴き逃していました。本当にぶん殴ったろうかと思いました。あと演奏会後のお見送りで周りに人が居る中で鹿児島弁を垂れ流し、挙句一万円と焼酎5合瓶を二本、手渡ししてきた為このジジイは二度と演奏会には呼ばんと固く誓いました。

 

しかしながら、憂鬱だなァ……と思います。

 

この記事をしたためるのも、本当は二月六日、母親の命日のうちにしたかったのですが、何とはなく億劫になってしまい、ちょっとだけはみ出してしまいました。詰めの甘さも母が指摘していた、私の悪いところです。きっとこれを知った母は私を叱るんだろうな、と思いながら今日はここら辺でしまいにしたいと思います。

 

暖かくして寝ます。風邪をひかないように。

誰だって一生夢見人

タイトルは1番大好きな推しグループの歌からです。ゴリかっこいいので検索して聴いてみてください。

 

さて、最近夢見が悪いです。

 

私には鬱のフラッシュバック要因が複数あるのですが、それを引き起こすものが夢に出てきます。

これがどうもいけない。

 

夢ってどうやって調整できるのでしょうか。てか夢ってなんなんだ……?脳科学的な話をしたいのではなく、あくまで私が夢を見ている意味について考えたいわけです。こんなにどうしようも無い人生ですが、せめて夢くらいどうにかしたいわけです。ろくでもない人生と反する形で、私の夢には存在して欲しいわけです。

 

ここで(流れるようにただ文字を打つこのブログの悪い所が出る)、ひとつの詩を思い出すわけです。

 

林望作詞の合唱曲「夢の意味」の一部にもあります、

 

夢の意味を

誰も本当には知らない

 

いや知らないんかい。じゃあどうしようもないわな……途方に暮れてしまいました。悲しい。もうじゃあ寝るか。とりあえずフラッシュバック要因が出てこないよう、なんか別のことを考えておく必要もあるのかもしれないです。CANMAKEの新作はいつ店頭に並ぶのかな、とか。夢にCANMAKEが大量に出てこられたらどうしましょう。まあ多分意味も私たちに推察できるものではないのでしょう。

 

じゃあ何が出たっていいのか。夢の意味を誰も本当には知らないのだから、私たちのような下等生物が思い当たっていいものでは無いのかもしれないです。つまり夢の一つ一つに一喜一憂している暇はないんですね。いやでもいい夢見たら少しはこの幸福感にひたっていたいとも思うんでしょうね。都合のいいやつ。

どうしたらいいのか本当にわからないです。悪夢を見た!という話は聞きますがいい夢を見た!という話とか方法とかはどういうわけか明確にされていません。どうしたらいいんだ……知恵をお貸しくださると幸いです。

眠くなってきました。寝ましょう、せめて良い夢を見られるように。おやすみなさい。

 

 

 

 

追伸

紹介した曲「夢の意味」は、私が好きな合唱曲のひとつです。それを一緒に歌った人も、指揮者も、伴奏者も、その曲を教えてくれた人ですらも、私にとってかけがえの無い思い出となっています。聴いてみてくれたらなあとぼんやり思います。

推しが結婚しました

タイトルの通りです。

 

今日は朝からなんか調子が良く、すんなりと起き上がれて、また天気も良くてコープに弁当買いに行く時も調子が崩れず、いい感じだ!とウキウキになっていて。

飯を済ませチンタラ布団に籠っていたら飛び込んできたのは推しの結婚のニュースでした。いやはや。びっくり。

 

私の推しはももいろクローバーZのリーダーで赤担当の百田夏菜子さんで、百田さんとの馴れ初め(やかましい)を語り出すとこのブログがトンデモ文字数になってしまいますので詳細は割愛しますが、私は中三の冬頃からももクロを推し始めており、最近も、ももいろクリスマスと呼ばれるライブに参戦するなど結構ヘビーなオタクとして人生をすごしてきました。

 

推し遍歴は有安さん(緑)→卒業後百田さんに推し変といった感じです。

 

そんな百田さんがご結婚ということで。いやはやめでたいですね、ほんとうに。

百田さんはオタクからも割と「人格者」の扱いを受けているのでガチ恋勢の他にも人間として尊敬しているみたいなオタクも多く、今回の結婚発表を受けてガチ恋勢は死に、後者の思慕勢(存在しない日本語)が祝福をしている、と言ったイメージです。玉井さん(黄)とのカプ厨が最大かつ公式派閥なので、そこのオタクは無事死んでました。

私は思慕勢かつ後方彼氏面オタク兼ボケないと死ぬネタツイッタラーの性格も持ち合わせているため、結婚発表を受け止めるや否や速攻でネタツイートを大量にしてしまいました。反省しなさいインターネットやめなさい。

 

ただ、私の中には失恋としての悲しさよりも知っている人が結婚していくということの寂しさみたいなのが大きいのかもしれません。ここ数週間の忘年会や新年会などで「結婚したい」と言い回っていますが、偶然にもその想いがさらに増し、発狂することと相成りました。なんだよ推しが結婚て。こっちも結婚したいんだわ推しとじゃなくて普通に。ゼクシィの表紙飾ってたのも伏線かーーーッ!うわあーーーーーッ!結婚したい!行き遅れたくない!でもマッチングアプリは性に合わなかった!恋愛前提で知り合うのができない!恋愛に至るまでに整合性の取れた文脈がないと恋愛に至れない!これじゃあ一生恋人できないようわーーーーーッ!!!!

 

 

取り乱してしまいました。大変失礼致しました。

 

とりあえず、今後もゆるゆると今まで通りオタクを続けながら、またももいろクローバーZさんを見てデュフデュフと笑いながら、生きる活力を貰いつつ、ももクロさんを導くサイリウムの光のひとつになれたらな、と思います。気楽に生きていきましょう。

 

ただ仏桑花と桃色空は暫く聴けないです。笑

自分からストレス源に飛び込んでいくの良くないと思う

タイトルは先輩が私に向けた言葉です。

的を射た発言だと思うし、割とストンと心の中に落ちてきてスっと染み渡った言葉でもあります。仰った先輩は何気ないひと言だったと思いますが、先輩には感謝しています。今度一緒に飲むことがあったら感謝を伝えてダル絡みしたいと思います(嫌がられろ)。

 

さてさて、ストレスマネジメント的な話です。

 

周囲の助けもあり、私は何とか自分からストレスを能動的に摂取することは少なくなりつつあります。本当にまずいと思ったらSNSと適度な距離を置くことも学びましたし、友人に連絡を取ることもできるようになりました。驚くことに、以前は追い込まれても誰にも相談できず1人で悶々と抱え込んでいたのです。本当に良くない。

 

一方で、受動的なストレス摂取に対しては、一切の対策がなされていない状態です。見てしまったものに対して心が揺らぎ、精神の不調に繋がり、最悪の場合は身体にまで支障をきたすといった流れは、未だに断ち切ることが出来ていません。幸いにも以前のように近所のスーパーで過呼吸を起こしてぶっ倒れかけるといった所まではいっていませんが、それはその時に摂取したストレスの絶対値が多かったためであり、では今同じ量のストレスを受けたら同じことにならないかとなると、ならないとは言いきれない状態です。

 

要は、ストレスに異常に身体や心が耐えられなくなっている状態になっているのかもしれません。どうしたらいいのか、どうやったら避けられるのか、どうやったら耐えられるのか、耐えていいものなのか………戦いはまだまだ続きます。いつまで続くんだろうと絶望すら覚えます。

 

谷川俊太郎の詩に「絶望」というものがありますが

その一節を引用すると

 

絶望からし

本当の現実は見えない

本当の希望は生まれない

 

とのことで。

絶望があるなら希望も生まれるんかなあなどと、そんなことをぼんやり思いながらの夜です。眠い。寝よう。

言葉は発芽する

帰省しています。

 

唐突な話ですが、私の故郷は鹿児島県です。西郷どんから綾小路きみまろまで輩出した我らの故郷ですが、この鹿児島県にはひとつ突出した特徴があります。

それが「訛り」です。

 

私は今年で24になるわけですが(年が明けるとこういうことになってしまうというのは辛い)、私の同級生達はみな一様にライトな鹿児島弁を喋ります。標準語に鹿児島弁のイントネーションと、語尾などに訛りをひとつまみ。隠し味程度の鹿児島弁ですが、他所の人からすればそれも十分な鹿児島弁のようでして……。親世代に比べて鹿児島弁で会話をすることの少なさや年数の短さ、SNS等によって標準語に触れる機会が多いことなどが原因なのでしょうか。

では私はどうでしょうか。

私の鹿児島弁は、はっきり言って濃い、いや鹿児島での言い回しを借りると「濃ゆい」です。知り合いの初老の合唱指揮をしている先生をして「ネイティブ」と言わせるほどナチュラルに喋ることもでき、同世代の人たちのそれとは比べ物にならないほど、私の操る言語は標準語から乖離しています。

もちろん、私とて標準語を喋れないわけではありません。大学では滅多に訛らないし、寧ろ初めて知り合った人に鹿児島出身であることを驚かれるほどの標準語ユーザーです。ただ、一旦訛りのスイッチが入ってしまうと、出てくる言葉が同世代のそれより流暢すぎるというわけです。

ちなみに脳内で思考を巡らせている時は標準語ですが、独り言は基本的に鹿児島弁です。怒っている時は鹿児島弁が出ますし、運転中の悪態は父譲りのコテコテの鹿児島弁です。というか、私の鹿児島弁は父の影響を色濃く受けています。父は鹿児島県南部の出身であり、比較的年齢も上のため訛りが強く、その訛りの影響をふんだんに受けてしまったのが私という訳です。大学をお休みしている期間、父親としか喋らない日というのが多く存在した結果、私の鹿児島弁が非常にどぎつくなっています。

 

このアイデンティティと呼んでも差し支えない域まで来た私の鹿児島弁ですが、ここに来て喪失の危機に晒されています。鹿児島弁を喋るのはいいが、地元民以外には通じない。博多弁や関西弁のように、「方言萌え」という概念は無い。5年ほど前にアルティメット鹿児島弁ニキの動画が話題になったことからも分かるように、鹿児島弁というのはコンテンツとしては笑い、エンターテインメントに近いものにあります。このような状況下で鹿児島弁を喋ることをやめてしまっている私は、標準語を喋る時と地元に帰って訛る時があり、それぞれなんか違うお面を被っているような、複雑な感情になっています。

ストレートにものをいいたい時は鹿児島弁に限るし、でも標準語で喋らないと確実に通じない相手がいる。怒っている時などにそのようにして聞き返されるのは悲しいし辛いし、でもどうしようもない……となり、鹿児島弁を喋ることを「悪いこと」というふうに捉えてしまう自分がいるのも辛いです。わたしは普通にストレートに喋りたいだけなのに。

 

どのようにしたらいいのかわからないまま、帰省先で祖父母や父と会話を交わしました。会話は弾む弾む。楽しい。この笑いに訛りを嘲笑するものが無いのが救いです。またくっでそんときまでいきっくれ、おいも広島でどげんかこげんかやっで。そういうことを話しました。言語化するといささか不自然なものになってしまうのも鹿児島弁の面白いところではあると思います。

みんなも話そう、鹿児島弁。みんなで笑おう、鹿児島弁で。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

今年の抱負は「健康」です。

お酒も程々に、心も体も健康な1年にしたいです。年男だし本厄だし……23年と違い24年は明るく楽しい1年にして行きたいなと思います!

お友達と旅行に行きたいし、県外に散らばる友人の元を訪れたいし、趣味の合唱も長く続けていきたいし、先輩とご飯に行って奢られたいし、後輩にご飯を奢ってあげたい、そういうことを考えながらの新年です。薬の影響で起床後1時間は行動不能なことが続いていますが、無理をせずゆるゆると自分のペースで生きていきたいなと父親の怒鳴り声をBGMにそんなことを思っています。

 

なにとぞ。