酔いどれ

戯言

四年前と二年前

実家に帰っておりました。

 

目的は猫の世話です。この度めでたく姉が結婚する事になったので(クソがよ)、両家顔合わせのために父が京都に行かねばならず、暇を持て余している私が実家の鹿児島に帰り、4匹の猫の世話をすることになったわけです。

帰るやいなや、父親にいつまでいるのかと聞かれました。全くこの父親というものは私がLINEで答えているにも関わらず見落としているのかなどと考えつつも月曜まで居ると答えました。別にいいけど、と前置きつつの父の返答は「翌日は命日だよ、お母さんの」でした。

 

あ、まずい。忘れていた。

広島に戻る次の日は、私の母の命日だったわけです。

 

別に完全に忘れていた訳ではありません。先週頃からそういやこの時期だったなと思うことはありました。ただそれを帰省と絡めるつもりが私の中でなかっただけです。

 

ただ、忘れていたという罪悪感と、母が居ないのだといういつも気にしていなかった筈の悲しみが胸の中に広がっていきました。

 

母は私が二度目の(二度も受けるな)大学受験の真っ只中、ちょうど全ての私大試験を終え第一志望の国立大二次試験に向けて勉強を始めよう!という時に亡くなりました。センター試験を終え、予想以上の点数を取り母とふたりで喜んだこと、国立大の志望先を決め発破を掛けられたこと、私大試験前日に勉強が捗らず早々に予備校から逃げ出し自宅に帰ると母がおらず緊急搬送されていたこと、試験を控え気が動転するといけないからと叔母に見舞いを制限されていたこと。術後意識は回復したけどぼーっとしており、名前を聞かれて何故か私の名前を答えたらしいこと。私立受験を終え、明日は予備校をサボって見舞いにでも行くかと床につき、翌朝起こされた時には容態が急変していたこと。これはあくまで記憶の一片にしか過ぎませんが、四年経った今でも鮮明に記憶していますし、思い出す度に悲しみが込み上げてきます。

 

また、二年後には叔母が後を追うように亡くなっています。母と叔母は非常に明るく口数が多かったので、先日正月に親戚が一堂に会した際はその雰囲気の変化から二人の不在を感じずには居られませんでした。

 

どちらも私の精神衛生にも、人生にも深く影響を及ぼしている気がします。記憶の中の二人は元気に私にちょっかいを掛けてきますが、もう私が二人と会話することはありません。どんなに話したいことがあってもそれが叶わないというのは辛いな、と思います。

 

話を戻しましょう。

帰省中にそういった悲しみを覚えながら、母方の祖父母の宅をも訪れました。目的はお小遣いをせしめる為間違えた、祖父母に元気な顔を見せ仏壇のご先祖さまに手を合わせるためです。決してお金に目が眩んでいる訳ではありません。

特に祖父の痴呆が進行していて、私の名前が出てこないのは兎も角(面白爺なので十年前から私と従兄弟を間違え続けてきた)、やれあそこの家の権利はどうしたとか言い出すのです。それは五年前に祖父自身が売却したのに……と祖母と二人でいなしつつお茶を飲み談笑していました。

祖父がふっと母と叔母はどうした、と聞いてきます。なんということか、二人とも亡くなった事すら忘れていました。もう死んじゃったよ、と祖母が言うのを私は適当に追従していました。祖父はもう居ないのか、と涙目になりながら呟いていました。

 

私はいつになったら二人の死を乗り越えられるのか……と呆然と最近思います。実家に帰った時も、ここに母が居ないのなら実家では無いと思ってしまいます。私はマザコンでは決して無く寧ろ母の存命中は母と大喧嘩をしたり突き飛ばしたり突き飛ばされたりがあったわけですが、それでも親の片方が二度と居ない家というのは虚しいです。また、大学進学のために家を出る直前に母が他界したため、母のいない家を我が家だと思えないのかもしれません。実家に帰る度に空虚感に襲われるのはこのためなんだと思います。

 

私は合唱をしていますが、私が高校生に上がるタイミングで合唱を辞めてしまったのを惜しんでいたのは間違いなく母でした。叔母は高校生の時に合唱で日本一を取ったほどであり、それを聴いていた母もまた、歌いこそしないですが合唱に関して比較的耳の肥えた人でした。二人とも亡くなった今となっては、合唱再開したよと報告して喜んでくれる人も、演奏会に呼んで詳細に感想を述べてくれる人も、親族の中では誰もいません。ちなみに一度父親を演奏会に呼んだ際、彼は見事に船を漕ぎ息子がソロを歌っているのを聴き逃していました。本当にぶん殴ったろうかと思いました。あと演奏会後のお見送りで周りに人が居る中で鹿児島弁を垂れ流し、挙句一万円と焼酎5合瓶を二本、手渡ししてきた為このジジイは二度と演奏会には呼ばんと固く誓いました。

 

しかしながら、憂鬱だなァ……と思います。

 

この記事をしたためるのも、本当は二月六日、母親の命日のうちにしたかったのですが、何とはなく億劫になってしまい、ちょっとだけはみ出してしまいました。詰めの甘さも母が指摘していた、私の悪いところです。きっとこれを知った母は私を叱るんだろうな、と思いながら今日はここら辺でしまいにしたいと思います。

 

暖かくして寝ます。風邪をひかないように。